僕はロックが好きと言う割には保守派で、自分の理解を超えた新しいものを発見すると先ず否定から入る。そしてちっとやそっとの事ではそれを認めない石頭だ。しかし別に何事に対しても常に批判の目を光らせている監視員でもないので大抵は「別に興味ないね」で済むのだが稀に「こいつは許せない」事もある。忌野清志朗はその「稀」であった。
僕が高校に入った頃、清志朗は新生RCサクセションとして「ステップ」で再スタートを切った。テレビで彼を見た時、いきなりあのヘアー・スタイルにカチンと来た。「パンクでも無いのに何だあの頭は」そして真っ赤なブリティッシュ風のスーツ、化粧。僕はグラム・ロックの様な中性的なイメージを狙ったオカマ系ミュージシャンが大嫌いなので、なおさら清志朗のパンク・ヘアーが気に入らなかった。「ポリシーが無い、どうせ直ぐに消えて行くだろう」と吉本の若手芸人をみる様に思ったものだ。当時つきあっていた彼女がチャーのおっかけで、僕もファンだったのでジョニー・ルイス・アンド・チャーのチケットが取れると一緒に観に行ったのだが、当時はRCが前座で出ていた。しかし前記の経緯もあり、何となく面白くないので彼らが出ているときはロビーに出て煙草を吸っていた。すると彼女が「何で観ないの?」「俺はチャーと加部ちゃんの演奏を聴きに来たんだよ」「ふーん、でも結構いいよ。きっと人気出るよ」彼女の予想通りRCサクセションは瞬く間に日本で最もビッグなバンドに成った。
RCの人気が不動になった頃、武道館で「ポップンロール300%」と言うイベントがあった。馬鹿げたネーミングだがシーナ&ロケッツを観る為に行くことにした。「行くことにした」などと嫌々そうに書いたのは、記憶が定かではないがプラスチックスがトリで、彼らとロケッツの間にRCが出るのでプラスチックスも観たかった僕はRCを観ないわけにはいかない状況があったからだ。僕はまだ清志朗が嫌いだった。待望のシーナ&ロケッツの演奏は武道館と言うスケールにまったく合わなかった。やっぱり鮎川誠のギターが聴きたかったらライヴハウスに行かなきゃ駄目だ。がっかりしているところに彼らは登場した。「しょうがないからじっくり観てやろう」と斜めに構えていると梅津バンドのホーンが会場に鳴り響いた。ベートーベンだった様な気がする。「なんだか大袈裟だな。ん、何だこの匂いは?」鼻くそをほじくりながらその方にふりむくと図書委員長の様なシケた子供があき缶にシンナーをいれて吸っている。その頃はもうアンパンは卒業していた僕だったが、退屈しのぎに取り上げてやろうと手を伸ばしたその時、チャボのギターが「がっがっがっ」と鳴りはじめた。すると清志朗が指揮者の様な振り付けをしながらチェリー・ピッカーに乗って降りてきた。先程のロケッツの倍ぐらい分厚い音にあわせて清志朗が舞台で踊りだすともう武道館は総立ちになった。シンナー小僧も激しく揺れている。「おいおい、まあ落ち着いて」と思いながらも僕の身体も揺れはじめた。「よーこそ!」例の清志朗の絶叫を聴くと「ああ、もうだめだ」と僕も立ち上がって踊りはじめてしまった。「嫌いだったのに」そこに居る人を一人残らずグイグイとステージに引き込んでいくパワーは恐ろしいほどのパワーを持っていた。今思い出すとあれは波乗りの感覚に似ている。上まで引っぱり上げられたら後はもうビーチに向かってまっしぐら、それだけだ。怖くたって嫌いだって関係ない。「あいしあってるかーい?」それまで馬鹿馬鹿しいと思っていた決め台詞が出たときにはもう「スミマセンでした。あんたは凄い」と諦めざるをえなかった。
それから約10年後、僕はNHKホールにいた。今はもう多くのリアル・ロック・ファンに見限られてしまった感のある、レニー・クラヴィッツの初の単独公演を観る為だった。BGMが止んで会場のざわめきが静まった時、舞台にジーンズの上下を着たツンツン・ヘアーの痩せた日本人が登場した。「あれ?清志朗じゃない?」どよどよとどよめく客席に向かって彼はマイクを掴み「あいしあってるかーい?」といつもの大声をはりあげた。「うぉー!」またも総立ち。ビッグ・ウェーブ。RCサクセションが無くなっても清志朗はまだカリスマ性を失ってはいなかった。「イエー!ママ・セッド!イエー!最高だぜ!いかしたロックンローラー!紹介しまーす!レニー・クラヴィッツ!」ここでジャーンとレニー君がギターをかき鳴らしながら登場してきてライヴはいきなりクライマックスに突入した。この時のレニー君は本当にエンジン全開でカッコ良かったが、僕はそれよりも清志朗の圧倒的な存在感に感激してしまった。ロックンロール此処に極まれリ。男は瞬間で決まる。
さらに数年が経ち、その次に清志朗を見たのは豊洲で行われた二回目のフジ・ロック・フェスティバル。エルヴィス・コステロを最前列で観るために、ドロの中を一歩一歩慎重に歩いているとステージに若いバンドマンと共に清志朗が出て来た。「あいしあってるかーい?」まだ言ってる、と思いながらも久々の生大声に僕の心は弾んだ。当然のごとくツンツン・ヘアーに派手な衣装とメイク、へなちょこなダンス。何も変わっていない。「ちょっとさぁ、もう50になるんだろ?」彼はRCとしての活動を停止した後、原発問題や大麻法に関してのメッセージじみた楽曲を発表したりして「何となくあざといなぁ」と思わせながらもその美しい瞳で世間のうがった視線をハネ返し続けてきた。「ステップ」から20年、もう認めるしかないや。しょうがない。まったく呆れるほどよく通る声だ。そんな事を考えていたら、大昔、矢沢永吉がラジオで言ってた言葉を思い出した。「今はまださー、日本のロックも歴史が浅いからね。でも何時かきっとロックのいい時代来ると思う。それまで俺らは続けるしかないのよ。」今がそうかと言えばどうだか分からない。でも20年前よりもロックが市民権を得ているのは確かである。その御陰で失ったものも山ほどあるとは思うけれど、清志朗やエーちゃん達が築き上げた山をまだ彼ら自身が登り続けている事自体が良い話しなのである。逆にそれが出来ない人はこの場を去れ、と言いたい。僕はエリック・クラプトンの様に昔はロックをかたったくせに妙に奇麗に枯れていく人が嫌いだ。彼が参加した「ジョン・メイオール・アンド・ザ・ブルース・ブレイカーズ・ウィズ・エリック・クラプトン」は僕の好きなアルバムのベスト10に入るけれども、クラプトン自体は好きなミュージシャンのベスト100にも入らない。ブルースから来ようがフォークから来ようが来たからには大事な所は貫き通さなければダメだ。それほどロックの道は厳しい。その道はもっとデタラメで、如何わしく、悲しく美しいものでなければならない。チャック・ベリーを見よ。彼は幾つになっても単身ギターを抱えて転戦し、若手のローカル・バンドをしたがえてダック・ウォークである。きっと多くの人がチャックではなく、クラプトンを指示するだろうが僕は違う。変わっていくことも人生にとって大切な事だろうが、根っこを失わずに続けて行くこともまたしかり。この訳の分らない矛盾に悩まされながら歩き続けるイバラ道こそがロックンロールなのだ。
懐かしいRCのナンバーを聴きながら「まだまだ声が出てる、いけてる」と嬉しかったがやはり歳なのか、彼は一曲終わるごとに本気でゼーゼーしていた。それでもいい。死ぬまでがんばって下さい。いかさまだっていい。死ぬまで光を放ち続けて下さい。清志朗、あんたならきっとチャック・ベリーに成れる。そのイバラ道をクネクネと軽いステップで歩んでいけるはずだ。それがもしも出来無く成った時には、潔く、歌うのを辞めて下さい。(2000.3)
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