猫たち:ムク篇その2


 最初は物珍しかった部屋暮らしに飽きたムクちゃんは、2日目の夜あたりから、盛んに外へ出たがり始めたのである。元々外で暮らしていた猫に、危ないから家で遊んでろと言うほうが無理であった。その晩はなんとか玩具を使って誤魔化したが、3日目にはもうどうしても外に出たいと暴れ始めた。その日は仕事が無く、一人でムクちゃんと遊んでいた僕は、そんな様子に手を焼いてしまい、ちょっとだけなら、とリードを付けて近所の空き地で遊ばせる事にした。家を出て500メートルほど歩いたところで、突然ムクちゃんは野生の底力を発揮して、リードを振りほどいて逃げ出してしまった。しまった、と思ったときはもう遅く、道路の反対側の車の下に潜り込んだムクちゃんは、一瞬僕に一瞥をくれると、あっという間にどこかに行ってしまった。近所の草むらや縁の下など、猫が隠れそうな場所をグルグル捜し回ったが何処にも居ない。時間が経つに連れ、事の重大さに押しつぶされそうになった。そこに外出からカミさんが帰ってきて事情を話すと「小猫なんだからそんなに遠くへは行けないはず」と二人で再び深夜まで捜索したが、結局ムクちゃんは見つからなかった。一応警察にも届けたが、まさか車に轢かれたのではなどと考えると、とても眠ることは出来なかった。

 次の日も黙々と捜索活動を続けたが見つからない。夜にはやや諦めの気持ちも出てきた。「あの子は愛想が良いから、どこかの家に入り込んでるかもしれない」「でも何かの事故に巻き込まれていたら、わざわざ東京まで殺しに連れてきたようなものじゃん」意味のない想像だけが、ムクちゃんの思い出と共に虚しく沸き上がり、消えていった。そしてその次の日の深夜、クヨクヨと仕事を終えて家に帰ると、なんとそこにやや緊張したムクちゃんが座っていた。その日も捜索を続けていたカミさんが、僕がムクちゃんを見失った場所で、諦め半分に「ムーちゃん、ムーちゃん」と呼びかけると「ニャーニャー」と茂みから出てきたというのである。やっぱりムクちゃんは賢い猫だった。半ば諦めかけていた僕の心は瞬時に晴れ上がった。しかし、その喜びも束の間、なんとカミさんはムクちゃんを城ケ島に返すべきだと言い出した。発見後、ムクちゃんはすぐに家に戻ったわけではなく、どうやら遊びの最中だったらしく木に登ったり、土をほじくり返したりして暴れまわり、その後ろをカミさんが家の垣根を掻い潜ったりして1時間ほど追跡し、遊び疲れたところをやっと捕獲したらしいのである。その時のムクちゃんは、本当に生き生きと楽しそうで「外の面白さを知ってる子を家に閉じこめておくことは出来ない」と言うのである。かといって放し飼いにするには、うちの近所は交通量も多いし、病気の心配もある。どうしたものかと悩んでいるこちらの気持ちを知ってか、しょんぼりと座っているムクちゃんの顔を見ていると、自分のおかした罪の意味を改めて考えずにはいられなかった。そして僕は諦めた。

 「せめて今晩だけでも」と、リラックスし始めて、また外に出たがるムクちゃんを誤魔化しながら、この子のために買った幾つかのオモチャで遊んで別れを惜しんだ。空が白々と明け始めたころ「ムーちゃん、帰ろうか」と泣く泣く車に乗り込み、城ケ島へと向かった。来たときよりもずっと短いドライブだった。例の駐車場に着いて、車を降りるとムクちゃんは何事もなかったかのように歩みだし、始めて出会った時のように路上に立った。やっぱり狭くてゴミゴミした僕らの部屋より、この広い駐車場こそこの子に似合っていた。とりあえず記念撮影をして、ニャー、ニャーと甘えるムクちゃんに最後のエサを食べさせていると、他の猫たちもパラパラと出て来て一緒に食べ始めた。数日間留守にしていたのでいじめられるかと思ったが、ひとしきりみんなに匂いを嗅がれただけで、すぐに寛いでいたので安心した。「振り回してごめんな、元気で生きろよ」と野良猫のくせに、全然嫌がらなかった首の鈴を外し、別れを告げた。この時はもうムクちゃんは車に乗り込もうとはせず、ただ僕らを見つめてニャー、ニャーと泣くだけだった。車をゆるゆると走らせるとこちらを見ているような、いないような素振りでアスファルトに座っているムクちゃんがバックミラー越しに見えた。「本当にかわいい子だったね」と追い撃ちをかけるように、カミさんがメソメソと泣き出した。辛い別れだった。

 その後もムクちゃんの事が心配で頭から離れず、一週間後に様子を見に行くことにした。駐車場に着いて、同じ場所で「ムーちゃん、ムーちゃん」と呼んでみると、また「ニャーニャー」と車の下からトコトコと軽いステップでムクちゃんは出て来た。あっさりと再会出来たことを喜びつつ、こいつは本当に凄い猫だと思った。ゴロゴロとなついてくるムクちゃんと、遊びながら写真を撮っていると、近所の土産店の人が通りがかり、ムクちゃんに「おお、チャミー。元気か」と声をかけた。なんとムクちゃんはチャミーだったのだ。チャミーは野良だけど、ああいうおじさん達に優しくされて、たまにエサなんかもらって伸び伸びと幸せに暮らしていたのだ。やっぱり、あの数日間はこの子にとって、迷惑なハプニングだったんだと思うと申し訳ない気がしたが、今またこうして平穏な日々を送っているわけだから「まあイベントだったと勘弁してくれ」と僕の気持ちは少し軽くなった。生まれて初めてのシャンプーも気持ち良かったはずだし、おいしいものを食べて、温かい布団で寝て、珍しいオモチャで遊んだ思い出は、直ぐに忘れてしまうだろうけど、ムクちゃんの人生の小さな彩りにはなったはずだと思う。きっと僕たちはこれからも、何度もここにムクちゃんに会いに来るだろう。そして一生ムクちゃんの事を忘れることはない。短い間だったけど、本当にこの子にはいろんな事を教えてもらった。心からありがとうと言いたい。このあとウチにやって来る事になる「カブラ」や「ムギオ」に出会えたのも、ムクちゃんの存在があったからだし、それにたぶん、これほど不思議な縁のあるカワイイ猫に、今後出会うことは無いだろうとも思う。ムクちゃんに幸あれ。


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