★健全不良少年日記★

そしてセックス・ピストルズ


 セックス・ピストルズ。今では当たり前の様にその名を口にする事が出来ますが、中学生の頃の僕にとってはかなりのエネルギーを使うネーミングでした。恥ずかしい話しですが彼等のデビュー・アルバムは母からのクリスマス・プレゼントでした。毎週1000円程度のおこずかいを貰ってはいましたが日々の煙草代と週末の名画座通いにその殆どを費やしていた為、大きな買い物は何かのイベントにかこつけて親に強請らざるを得ませんでした。毎年その日にはLPレコードを買って貰うのが習慣で、仕事の帰りに母がレコード屋に寄ってくる事になっていました。「今年は不味いな、ピストルズって言えば良いか。でも間違えたら困るからやっぱりフルネームで」と思い切って母にバンド名を告げると「何それ?ビートルズじゃ無いの?セクシー・グループ?まあ!」子供だ子供だと思っていたのに一体何時から!ってな感じだったのでしょう。しかもあの怪しげなジャケット・デザインですから。僕の部屋からバリバリのギター音が漏れて来るまでは「まさか、洋モノのアダルト歌謡では」とハラハラしたに違いありません。僕だって母親にそんな言葉を発するのは嫌ですが自分で買う金が無いのだから仕方ありません。母は自分の寛大さを示すかの様に「セックス」を連発しました。「ほらセックス、ピストルズ。これでしょ?セックス。ピストル?」「ああああ、そうそう。ありがと。じゃ!」そんな思いまでして手に入れたからと言う訳じゃありませんが、現在に至るまでの僕のレコード・コレクションの中で『勝手にしやがれ』は常に一位をキープしています。名前のインパクトに恥じぬ彼等の活躍はそれ以降、僕が生活する上で起こっていく様々な事柄の是非を決める判断基準と成ったロックンロール観を確立してくれました。

 僕のロックンロール初体験は小学生の時、人気TV番組『リブ・ヤング』に出演したキャロルを見た時です。黒革の上下にポマードべっちょりのヘアー・スタイル。上から下までピッカピカの出立ちに「この人達は一体何をする気なんだろう?」とそれだけでテレビに釘付けになってしまいました。「今日は何を演ってくれるの?」と司会の愛川欽也が質問すると、その外見とは裏腹に意外な爽かさでエーちゃんが何言か答えて直ぐに演奏が始まりました。「OK、ワントゥー、ダダダダダ!アウッ!」エレキでバリバリバリッ!ドラムがダダダダッでワァオー!イェーイですからもう何がなんだか判らない。それまでに聴いた事の無い音楽でしたがその強引な迫力に僕は一瞬で虜になってしまいました。「凄え、カッコイイ!」2、3曲やってスッと引っ込んだ彼等を見て異常に興奮したのは僕だけでは無く、翌日の学校には「みたみた?俺もキャロルみたいになりてぇー!」と言う即席キャロル・アーミー達が溢れていました。掃除の時間にホウキをギターにみたててクネクネと腰を振って真似をしたり、小学生のクセに髪をリーゼント風に決めて来たお調子者も出て来る始末。ジーンズはラッパからスリムに主流が変り、上着はテディーボーイ風のスウィング・トップが流行ったりしました。そろそろポコチンに毛が生え始めて、それと同時に世の中に対しての疑問がムラムラと沸き上がって来た頃です。「やっぱ男は不良でしょ。大人の言う事なんか信用出来ないでしょ」反主流と言うか、巨人より阪神、キカイダーよりハカイダー、邪道で行こう!みたいな感じです。男なら誰だってそんな「アンチ」な時期がある筈です。僕が住んでいた横浜は東京近隣の港町と言う土地柄か特にそんな風潮が強かったみたいです。しかし当時の不良と言えば髪を伸ばして、パンタロンで、フォーク・ギター、同棲時代。なんか違う、あんな不良には成りたくないしカッコ悪いと思ってた所に颯爽とキャロルがエレキ・ギターを唸らせながら現れたのです。あの凛々しいスタイル、激しい音楽と健全でツッパった態度。「おお、これこぞ正真正銘の不良少年!」新鮮な価値観を僕等にもたらしたキャロルはそれ以降、既に人気のあった萩原健一と共に不良少年達の永遠のカリスマとして君臨して行く訳です。しかもキャロルは地元出身のバンドでした。当時の横浜は今では考えられないほど汚い街で、桜木町の駅前には艀が並び、そこには水上生活者もいました。福富町、横浜橋といった川っぷちの繁華街も一歩裏に入れば「えっ」と思うようなドヤ街で、キャロルもデビュー前には伊勢佐木町のタコ部屋住まいの皿洗い、山下港での沖仲仕のアルバイトなどをしながら音楽の勉強をしていたそうです。友達の姉がキャロル結成前のエーちゃんのステージを見たのも若葉町のディスコでしたが、あの辺りは今でも人が一人や二人攫われたって誰も騒がない様な所で夜の独り歩きは絶対にお薦め出来ません。「こんな街から出て来たのか」とまでは当時の僕は考えませんでしたが、メンバーの言葉使いや立ち振る舞いは明らかに地元民のそれでしたし、そんな街に暮らした者特有のあぶない匂いはリアルな魅力に満ち、芸能界にゴロゴロしている二世スターや坊ちゃん育ちのGSバンドよりも遥かに親近感と力強さに溢れていました。

 中学生になったらキャロルのコンサートに行こうと言うのが僕等の夢でした。今とは違ってロックのライヴを観に行く事は一種の冒険だったので子供同士ではダメなんじゃないかと勝手に決めていたのです。残念ながらその夢は叶いませんでした。入学式の直後、キャロルはデビューからたったの3年で解散してしまったのです。しかもその後に見た解散コンサートの映像の中で館ひろしにインタビューを受けている小学生を発見した時は悔しさで失神しそうになりました。でも何故か解散のショックよりもまるで桜の花の様な散り際の見事さに惚れ惚れとしてしまい、僕等は以前にも増して熱狂的なキャロル・ファンになったのです。当時は誰の家に行っても必ず『キャロル20ゴールデン・ヒット』がありましたから学校が終わると毎日、麻雀などをやりながら繰り返し繰り返しレコードを聴いては皆で一緒に歌い、もうそれだけで恍惚としたものです。唯やはり新曲を待つ喜びを失ったのは痛手でした。いつまでも彼等が残した数枚のアルバムだけで過す訳にも行きません。次第に仲間達はダウン・タウン・ブギウギ・バンドやクールスに流れて行きました。僕も彼等が嫌いではありませんでしたが何か重要な部分が欠落している様な気がしてイマイチ入り込めませんでした。キャロルはそのハードな外見とは裏腹に何処か繊細で切ない空気を漂わせていました。悲しみや喜びが綯い交ぜになった心の叫びとでも言うのでしょうか、そんなセンチメンタルな部分とエネルギッシュな爆発力とのコントラストが僕は大好きだったのです。現在僕はそれを『ロック魂』と呼び非常に珍重していますが、それをモロに感じさせてくれる様なバンドはナカナカいませんでした。その後もキャロルのフォロワーは続々と登場しましたがどれもこれもお粗末なバンドばかり。リーゼントで3コードをジャカジャカやれば「それがロックンロール!」と言う不謹慎なバンドの出現はキャロルの存在が歪めて認識されている証拠でもありました。それらに飽き足らなくなった連中はミラクルズやテンプテイションズなどのモータウン・サウンドが最高と言い始めましたが、こちらは聴くというよりも純粋には踊るための音楽で、繁華街をウロウロするようになるといつの間にか生活のバック・グラウンドで鳴っているという感じだったので然程気には留めませんでした。しかしある日レコード屋で『キャロルとディスコ・パーティー』と言うA面がキャロルのヒット曲、B面が『メリー・ジェーン』等の和製ディスコで構成された企画モノのLPを発見した時は愕然としました。最初は「こんなもん誰が買うんだろ。なめてんのか?」と思いましたが自分達の最近の音楽生活を顧みれば、それこそが時代のニーズであり「ロック魂がうんぬん」などとは関係無く不良が聴く音楽というものが誰かに定義されていて、それを聴くことがツッパリ達の暗黙のルールに成っているのかもしれないという可能性に気付いたのです。売る側か、買う側か、どちらが先に決めたのか判りませんが何れにせよ他者に括りを決められて提供されている以上それで良しとする事は非常に気分の悪い、僕の一番嫌いなパターンでした。更にこのLPの強引すぎる括り方に対して仲間の殆どが「良いんじゃない?便利で」と軟弱な態度だった事もショックでした。当然言い争いになりましたが結局「一般的に不良っぽければ別に良い」と言う事で落ち着きました。くだらない話しですが「何でツッパリやってんだ」みたいな所まで思い詰めてしまい、悲しくなった僕は「お前等、判ってねぇよ」と言うのが精一杯でした。後に垣間見たサーファーの世界でも似たような出来事がありました。70年代の湘南はサーファーだったらこの服、サーファーだったらこの音楽、サーファーだったらこの香水と訳の判らない事まで決まっていて、その枠からはみ出すことは許されませんでした。誰がどういう理由で決めた規則なのか知らなくても、皆何の疑問も示さずに平然とそのパッケージを受け入れていましたが「そんなこと波乗りと全然関係ないじゃん」と僕は全てを無視しました。結果「サーファーっぽくない」と完璧に疎外されましたが「コイツら、バカなんだ」と逆に彼等が哀れに見えました。こうした或る種の差別じみた意識には、波乗りやロックの本質からは全くかけ離れた不純でイジケた守りの精神が感じられます。千歩譲って相手の言う事に分が有ったとしても、やはりそれを強制する事と自分の意志とは関係なく平気で受け入れられる態度には納得出来ませんでした。

 諸々の事件により既成概念の打破を健全不良少年のモットーと考えた僕は「教科書に載るような優等生的バンド」でありながらもキャロルが敬愛して止まないというビートルズを聴いてみる事にしました。後で考えたら全く馬鹿馬鹿しい話しですが当時ツッパリがビートルズを聴くなんて論外でしたし、自分としても期待はしていませんでした。ただもう変にカブれた不良少年に成るのは嫌だったのと、キャロル以外の音楽を上っ面で聴くよりはマシだろうと意地で選んだヤケクソの選択でした。しかしレコードを聴いてみると意外にもそこには僕が探していた切なさとエナジーが、キャロルに見出していたロックンロールのエッセンスが惜しげもなく放り出されていました。『恋のアドバイス』『イッツ・オンリー・ラヴ』等々。「おおお、これは凄い!」と焦った僕は真面目なファンの子にレコードを借りたりして彼らの曲を聴きまくりました。「植田、ビートルズなんて聴くんだ?」いつも廊下でウンコ座りして仲間ととぐろを巻いてる僕にビートルズは似合わなかったのかもしれません。「ポールの声って綺麗だろ。ジョンの詩が何たらかんたら」さも高尚なモノのように講釈をたれる者も居ましたが、僕にとってそんな事はどうでも良くて、ビートルズはキャロルの延長線上に発見したロックンロール・バンドだったのです。確かに彼らのスタジオ・サウンドは洗練されていました。でも荒削りな事がロックンロールの絶対条件かと言えばそれは違うでしょう。スタッフに恵まれた彼らはその音楽世界を一般大衆にも受け入れさす事が出来るだけのテクニックを持っていたに過ぎず、要はそこにどんなハートが在るのか無いのかと云う事です。ハンブルグ遠征時代の写真に収まったビートルズの面々は斜に構えて壁にもたれ、ヘアー・スタイルからブーツ、その目つきまでまるっきりキャロルと同じでした。勿論格好を真似したのはキャロルの方ですが、その魂自体も借り物だったのかどうかを考える必要はありませんでした。そんなことは彼らの曲を聴けば誰にでも直ぐに判る事です。ビートルズも小汚い港町出身のバンドでした。その猥雑な環境が彼等の音楽を育てたと考える事は勝手な推測かもしれませんが遠からずでしょう。あのちょっと悲しげでパワフルなサウンドは大学の仲良しサークルから生まれてくる音楽とは全く異質のモノです。彼等がキャロルと同じように場末のクラブで酔っぱらいの喧嘩やパンパンの熱い視線を背景に演奏する姿を想像するだけで僕はとても楽しく成りました。

 キャロルとビートルズが結びついた時、僕は完全にロックンロールにハマりました。「他にも絶対イカしたバンドがあるはずだ」とビートルズとの出会いで拡大された情報網をフルに使って調べましたが引っ掛かって来るのは現役とは言えないバンドばかり。既に世の中はロックとポップスの境界線を無くしていました。「なんて詰まらない時代なんだろう」と悲観していたその時、救世主・セックス・ピストルズが登場したのです。彼等の存在を知ったのは雑誌のグラビアでした。その写真を見た時に「あれ?どこかで見た様な・・・」とおかしな感覚に襲われました。年齢は少々上の様ですが、その佇まいは横浜駅西口の五番街あたりでカツアゲしてる連中と殆ど変りません。薄汚いコート、喧嘩の時に重宝しそうなブーツ、そしてあのヘアー・スタイル。それは自身の気合いを単純に服装に具現化したという感じでファンションと言えるような代物ではありませんでした。メンバーの中でも特にジョニー・ロットンに目が行きました。あの面構えはどの学校の不良グループにも必ず一人は居るタイプで、腕っぷしは弱いがどんなに殴られても決して「参った」とは言わない男です。この手の男は絶対に引き下がりません。喧嘩は負けなければ勝ちだという勝手なポリシーを持っていた僕は一目でジョニーが気に入りました。他の3人はヤボッたいなと思いましたがそれ故に冷え冷えとしたリアリティが在りました。「コイツら一体何なんだ?パンク?」まったりしたロック・スター満載の雑誌の中で全く異質な光を放っていた貧乏臭い男達、彼等はどう見ても間違いなく本物の不良少年でした。「うむ、これは絶対にカッコイイ」と音も聴いていない僕がにわかピストルズ・ファンになった頃には既にまだ見ぬパンク・ブームがじわじわと世の中を包み始めていました。雑誌やラジオから断片的な情報を得る度にそこには「アナーキー」と言うキー・ワードがありました。辞書を引くと「無政府・無秩序」とあります。何やら怪しげですが自分なりに意訳すれば常々僕が不満に思っていたことを代弁してくれている様な気がしました。カテゴライズされる事を拒み、体制から管理されず、独自の判断で行動する事、そして反差別。これはもしかしたらロックンロールの同義語ではないだろうかと思うと何かドキドキと沸き上がるものがありました。しかし、イギリスの不良グループの動向に日本のスノッブな連中が流行を先取ろうと注目してる事に「バカじゃねぇの?」と飽きれたりムカついたりもしました。地元の暴走族にはビビッて近づく事も出来ないくせに外国の不良はオシャレだとのたまうトンガリ君達の理解能力ははっきり言って猫以下です。流行っていれば何でも良い。そういう誘導され易いアホの存在がピストルズの寿命を縮めた原因のひとつであったと今でも思っています。彼等と一緒にされるのは嫌でしたが僕は差別主義者でも無く、立ち入り禁止にする権利も無いのでひたすら真実が訪れるのを待ちました。ずいぶん待たされて遂にその実体が明らかになったのは問題のデビュー・アルバム『勝手にしやがれ』が出た時です。それまでにピストルズの曲は『アナーキー・イン・ザ・UK』しか聴いていませんでした。この曲はサウンド的には割と地味な印象でしたがジョニーのボーカルは思いのほか強烈で一発で気に入っていました。しかし「まだまだ、一曲ぐらいじゃ判らない」と両方の意味で用心深くなっていた僕は期待を込めて針を落としました。A面1曲目の『さらばベルリンの陽』から最後の『怒りの日』まで一気に聴いてレコードを裏返しに立ち上がった頃にはもう気分はフラフラでした。ピストルズは何の躊躇もなく「ほら、これだろ?」とゴロンとそのものズバリを出して来たのです。スティーヴ・ジョーンズのあのぶ厚いギターを聴いてカッコイイと思わない方がどうかしています。76年型ロックンロールの疾走感は正しく僕が望んでいたモノで、それがポンと現れた時の興奮は絶対に忘れる事は出来ません。更に猛烈な怒濤のロットン節には決定的に打ちのめされました。「ブッ飛ばしてやる!」その絶叫は獰猛さを飛び越えて一種の喜びさえ感じさせました。これぞ不良による不良の為の音楽。「トンガリ君、チミはどう思う?」とエセ野郎共に訊いてみたかったです。ヤワなトンガリ君は「ジャガジャーン」の一撃で座りションベンでも垂れたんじゃないでしょうか。もっともそれぐらいの感受性があればトンガリ君にも見込みがあります。僕はまるでビートルズのニュー・アルバムを聴いてる気分でした。理由は簡単でジョージ・マーティンの助手をしてたクリス・トーマスがプロデューサーだからだと言う事で話しを片づけてしまっては面白くありません。表面上のサウンドとは別に『ロック魂』の意味においてピストルズは間違いなくエルヴィス・プレスリー、ビートルズの次に出てきたニューな真性ロックンロール・バンドであり、彼等によってロックンロール界久々の新作が発表されたのです。不良性、反逆精神、爆発力、センチメンタリズム、此処にはロックンロールの全てが詰まっています。誰もが憧れ、誰もが聴きたかったむき出しのロックンロール、それはやっぱり薄汚い路上から現れました。しかも彼等は僕等とリアルタイムのとびッきりの不良少年達だったのだから堪りません。ハウス・スクワッター、セックス中毒、マザコン。明日が見えないろくでなしの集まりが、戻る場所の無い人間のパワーがロックンロールを昇華させ、ドブ川のほとりに見事な一輪の花を咲かせたのです。

 ピストルズの登場はストリート・ミュージックとしてのロックを復活させました。それはスタイルの回帰ではなく、精神の復興でした。いつの時代でもリアリティほど人々を惹き付けるモノはありません。僕がどんなにビートルズを薦めても仲間達は全く関心を示さなかったにも関わらずピストルズには敏感に反応しました。仲間内で最初にピストルズを発見したのはF君でした。今考えると恐ろしい話しですが当時僕等は「タイマン大会」と称して何もする事が無くなると仲間同士で殴り合いをしていました。他校と争いになったとき誰がどのタイミングで出て行くかを決める為にグループ内の順位を決めておく必要があったからです。僕はあまり強く無かったので下位の辺りをウロウロしてましたがF君とは体格も似ていた所為もあって良くぶつかりました。僕の方は痛いけど試合だからと割り切っていましたがF君は結構対抗意識があった様で普段あまり僕とは接触しませんでした。しかしある時何かの拍子に僕の座っていた机に彫ってあった「SeX PisTOLs」の文字を彼が発見して「ピストルズ好きなの?へー」とそれをきっかけにずいぶん仲良く成りました。「ピストルズ知ってるなんてナカナカやるじゃん」と腕力以外でお互い認め合えた訳です。不良音楽仲間が出来た事で僕の暗黒中学生日記も華やいで来るのかとウキウキしましたが残念な事に彼には盗癖があり、つるんでいるとトラブルに巻き込まれる可能性が高かったのでその後も余り行動自体は共にはしませんでした。それでも話すと彼は意外な情報通で他のパンク・バンドやサーフィンの事も色々と教えてくれたので今でも随分感謝しています。ピストルズが終焉を迎えつつあった事を教えてくれたのもF君でした。「ジョニーが抜けて替りにシドがボーカルに成るんだって。何か詰まんねぇな」本当に悲しそうなF君の顔を見て「ああコイツ、マジで好きだったんだなぁ」と何やら感動めいた気持ちに成った事を憶えています。他の連中は相変わらず無関心でしたが事件は起りました。ある日の放課後、仲間の家で麻雀をやりながらテレビで『ぎんざナウ』を観ていると洋楽ベスト・テンのコーナーが始まりました。その時になんとピストルズの『プリティ・ベイカント』が5位か6位ぐらいにチャート・インしていて突然ビデオが流れたのです。その頃はもう大半の連中が不良少年から完璧な非行少年に移行している最中でF君以外と音楽の話題で熱く語り合ったりする事もほとんど無く「どうせ馬の耳に念仏だ」と僕もそれに関しては全くの単独行動をしていました。しかし動いているピストルズを見るのは初めてだった僕はつい興奮して「見ろ見ろ!これがピストルズだぞ!」と立ち上がってアピールしてしまいました。すると既にそこに居た全員がテレビに釘付け状態になっていました。キャロルの時と同じでやはりビジュアルのインパクトは大きく、10秒たらずの短い時間でしたが実物の雄姿は僕のどんな能書きよりも百倍は雄弁でした。それまで連中はディストーションの効いたヘビーなギターの音に拒絶反応を起こしていました。あの音には長髪を連想させるものが在るらしく、ビートルズでも『ラバー・ソウル』までは何とか我慢出来ても『サージェント・ペパー』辺りになるともうアウトでした。50年代から60年代にかけてのロックはカッコイイがヒッピーやハード・ロックはダサいと言う感覚はロックの不良性がどんどん薄まっていくのを感じ取っていた現役の不良少年達の嗅覚の確かさでしたし、僕もその辺のニュアンスは良く判りました。しかしながら明らかに純粋不良バンドであるピストルズの場合はディストーション・サウンドでもノー・チェック、OK、どころでは無く、瞬間リズムを刻んだノリの良い奴も出て来る程でした。あの頃は如何に上手く踊れるかと言う事が女にモテる物差しだったので、ピストルズのスピード感溢れるビートについ釣られてしまったのでしょう。何れにせよ本来なら気に障る筈の音が気にならなかったという現象は実に興味深いものでした。「どおよピストルズ。カッコイイべ?」「まあね。良く判んねぇけど、こいつらマジでワルいんだろ?」「見りゃ判るだろ。実はFもファンでさ」ピストルズがバリバリのツッパリだと確認すると連中はエメラルドのピアスを外して替りに安全ピンを差し込みました。勿論ヘアー・スタイルはニグロでズボンも玉虫ボンタンのままです。僕もアポロ・キャップや学生服に安全ピンやジッパーを付けたりしてましたが髪形はリーゼントのままでした。「ピストルズ、いいんじゃない?」というちょっとした主張だけのヘンテコなスタイルですが、こう在らねばならないという思想はパンクには無い訳ですからその意味から言えばガチガチの既製パンク・ファッションに身を包みはじめた原宿辺りのナウなトンガリ君よりこちらのインチキ・パンク少年の方がはるかに上等です。大体僕とF君以外の連中はピストルズの音楽なんか全然判りませんし、レコードだってほとんど持ってません。単純に異国のツッパリ少年達が世界的に話題になっているのを面白がっていただけかもしれません。しかしここで重要なのは現役の不良少年達の意識にピストルズが触れることが出来たと言う事で、それこそが本来ロックンロールたるモノが越えなければならないハードルであり、ピストルズが本物であった事の証明でもあるでしょう。黒人のヒップ・ホップの様に街場の感覚で不良少年達に浸透したロックンロールは僕の知る限りセックス・ピストルズが最後です。しかし今後一切ピストルズの様なバンドが出てこなかったとしても、通じ合えた彼等の存在があったという事実だけで不良少年達は何時でもその手にギターを持つことが出来るのです。

 その後ピストルズは完璧な頂点に到達する前にマスコミや金に目が眩んだクズ共にズタズタにされてアッという間に解散してしまいました。このバンドの短命さについてはキャロル同様非常に宿命的な感じを受けますが、その惨めなフェイド・アウトの仕方さえもピストルズが如何にリアルなロックを凝縮したバンドで在ったかを物語っている様な気がします。あのままズルズルと活動を続けていたとしても既に成し遂げられた事の密度から言えばそれが瞬間であろうと長い時間をかけたモノであろうとあまり本質的には関係無い事だろうし、勿論もっとイイ所まで行けたかもしれませんがその辺の可能性を残した事も時代の粋な計らいだろうと考えた方が美しいです。劇的に登場し、劇的に去って行ったピストルズは夢を与えてくれる様なヒーローではありませんでしたが「世の中、何かあるね」と思えたのはきっと僕だけじゃないでしょう。「バカは相手にするな」という彼等からのメッセージは僕の様に何となく人生に居心地の悪さを感じていた人達にとって勇気と、疑問に対する答えを出してくれました。今、色々な事を思い出しているうちに改めて感じるのはセックス・ピストルズの存在、起こした現象、影響を及ぼした小さな出来事の全てがロックンロールそのものだったと云う事です。(ロック・ジェット01掲載)



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