1971年、横浜のロック・バンド"ヤマト"を解散した矢沢永吉が、新バンドを作るために鎌倉で偶然出会った内海利勝を勧誘。その後やはり横浜のロック・バンド"ジュリア"を解散してぶらぶらしていたジョニー大倉がバンドマン募集のチラシを見て二人を訪ねて来るが、直後に自殺を図り精神病院に入院。退院後再び矢沢を訪ね、内海と3人でキャロルを結成。1972年8月、横浜のディスコ"ピーナッツ"でステージ・デビュー。蒲田のキャバレーなどで演奏活動を続ける。その年の10月フジTV「リブヤング」ロキシー・ファッション特集に強引に出演、一躍注目を浴びる。革ジャンにリーゼント・スタイルでストレート・ロックンロールを演奏する彼らを見て、共演していた内田祐也はリハーサルから彼らと一緒に踊りまくる。この番組を見ていたミッキー・カーチスにプロデュースを申し込まれ、12月には「ルイジアナ/最後の恋人」でレコード・デビュー。この後半年間、月に1枚のペースでシングル版を発表。同時に「週刊プレイボーイ」に篠山紀信撮影によるグラビアを毎週3ページ掲載する。レコード・デビューと共に当時のドラマー相原誠が脱退し、変りに岡崎ユウが正式メンバーとなる。1973年2月第一回ロックン・ロール・カーニバルに出演。若者、関係者に圧倒的な支持を受ける。このステージをみたNHKの龍村仁がキャロルのドキュメンタリーを制作するがNHK側からクレームが付き大幅にカットされ音楽番組の枠の中で10月に放送される。が、納得できない龍村はその後もキャロルを追い続け翌年の4月にATG映画「キャロル」を完成、公開している。1973年4月、初のアルバム「ルイジアナ」を発表。12月、公演旅行中にジョニーが1ヶ月間失踪、理由は薬物常用による鬱症状の為。1974年3月、パリでのやまもと寛斎のショーに出演「ルイジアナ」「ヘイ・タクシー」「憎いあの娘」を演奏。パリっ子に大ウケする。その後、暴力事件等問題を起こしながらも全国的な支持を受け、活動を続けるがメンバーの音楽的方向性の違いを理由に1975年4月13日、日比谷音楽堂にて解散。
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